"仏教"カテゴリーの記事一覧
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我執つまり自我への執著が無駄な苦しみを起こす。自我が自己保存を意図するのは当然ではあるが、それが無駄な苦しみを引き起こす。しかしながら自我を敵視せず、自我に抵抗せずにいる必要がある。PR
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生老病死は、生まれること、老いること、病むこと、死ぬことの四つの苦。必ず起こる「生老病死」という四つの「苦」に向き合う。
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基本はヴィパッサナーである。
だがヴィパッサナーは瞑想ではない。 -
一切行苦を一切皆苦と表現すると勘違いしやすい。
行とはサンカーラであり、諸行無常の行と同一である。よって一切行苦においても重要な部分を示す。
行という字をあえて用いないということには何かの意図があるのだろうか。 -
仏教の「空」と空の状態の機能。空とは仏教が説いたものではあるが、哲学的には当然となる理である。我体・本体・実体なきというところのみならず一切が空である。
本来は「有るような無いようなもの」である「空」。しかし、空であろうとも有であるかのように働く機能があり、それが実際に何かしらの結果をもたらすことがある。前提となる仮定対象を「ある」と仮定すれば何かしらの機能が生まれ、働きに応じて実際に結果が出る。
「空」でありながら実在するかのように働く機能 -
諸法無我(sabbe dhammā anattā)は、「諸法非我」とも呼ばれることがある。
これは「我ならざるもの」というニュアンスをより一層的確に表現している。
諸法無我の「諸」は「一切の」とか「あらゆる全ての」であり、「法」は、「理」、「法則」、「揺らぐことのない真理」。無我は「我」というのは「固定的な実体」としての自分、自我を否定することを意味する。我を我だと思うこと、我を固定的な存在だとすることを否定している。これにはアートマンの否定の要素が強く反映されている。
諸法無我
あらゆる因縁によって起こっており、その中で固定的な「我」は無い
諸法無我は、「あらゆる因縁によって起こっており、その中で固定的な我は無い」というような意味を持つが、我がないのであれば自我の認識自体が起こりえない。
よって我がないのではなく、我は我ならず、一切は因縁により生起された我ならざるものということが諸法無我である。 -
スッタニパータは、原始仏教経典であるパーリ語経典の小部の経典。ブッダのことばとして日本語訳されている。
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断食、呼吸制御、そして肉体的苦痛を受ける苦行に答えはない。
それらには「何かしらの幸福の条件として苦行が設定されている」という構造が潜んでいるからである。 -
禅定の限界、最高の精神集中でも仏教においてはそれがゴールというわけではない。
集中を解いた瞬間に苦しみが戻るからであり、根本解決にはならないからである。 -
怨憎会苦(おんぞうえく)とは、五感や意識の五蘊により、嫌なものと会う時に起こる苦しみ、嫌なものと会うということを想像する苦しみ、そして嫌なものを思い出す時に起こる苦しみ。
嫌な対象に会い、触れる苦しみである怨憎会苦である。
執著から起こる精神的な苦しみである怨憎会苦
怨憎会苦は精神的な苦しみであり、接触と接触の記憶から生ずる何かしらの執著が軸となって起こる苦しみである。五感も意識も基本的には常に働いているため、望まなくとも何かしらを感じてしまうという構造から起こる苦しみであり、記憶による執著が原因となり起こる苦しみである。
「怨憎会苦」嫌いなものと会わねばならぬ苦しみ