"仏教"カテゴリーの記事一覧
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自己観察という言葉は解釈に幅がある。どのレベルで自己観察するかということが重要になる。
本来はヴィパッサナーが最高地点であるが、自我の感覚が強いと我執に囚われた観察となってしまう。そうなると前提自体の不完全性に気づくということがない。
自己保存の意図のもと、この個としての我を守るという目線で観察してしまい、認知に歪みが生じるからである。
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空性から見る「知足」。知足は、大乗の仏遺教経に登場する。
「吾唯足るを知る」というものは、吾唯足知・吾唯知足と表現される。
一般的な思考上の理解の範囲で「足るを知る」ということを考えてみた場合、知足は、現状に満足しろ押さえつけられているように感じる。満足しているということを知る、ということから余計な欲を起こさず、満足せよと命令されているように捉えられがちである。ただ、哲学的・仏教的に見ると全ては空性となるので、「ある」と「ない」の両方が確定的ではない。そうなると知足の前提となる「あるから足りている」の「ある」が疑わしくなる。
知足と空性と「充足への移動」 -
四無量心
慈心(Metta)、悲心(Karuna)、喜心(Mudita)、捨心(Upekkha)の四つの心 -
諸行無常は哲学的概念であり、普遍性を持つ「理」である。瞬間としての今の変化が中心となる。
「諸行」を客観的な現象として捉え、必ず変化があるというような無常を示すだけでなく、諸行を現象を捉える場合の「形成作用」を含んだものとして捉え、「客観的物理的な現象というものを認識する働き」を踏まえた「形成されたもの」として捉えることが本質的な諸行無常です。
諸行を現象を捉える場合の形成作用として捉え、現象というものを認識する働きを踏まえた「形成されたもの」として捉えることが本質的な諸行無常。 -
我執つまり自我への執著が無駄な苦しみを起こす。自我が自己保存を意図するのは当然ではあるが、それが無駄な苦しみを引き起こす。しかしながら自我を敵視せず、自我に抵抗せずにいる必要がある。
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生老病死は、生まれること、老いること、病むこと、死ぬことの四つの苦。必ず起こる「生老病死」という四つの「苦」に向き合う。
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基本はヴィパッサナーである。
だがヴィパッサナーは瞑想ではない。 -
仏教の「空」と空の状態の機能。空とは仏教が説いたものではあるが、哲学的には当然となる理である。我体・本体・実体なきというところのみならず一切が空である。
本来は「有るような無いようなもの」である「空」。しかし、空であろうとも有であるかのように働く機能があり、それが実際に何かしらの結果をもたらすことがある。前提となる仮定対象を「ある」と仮定すれば何かしらの機能が生まれ、働きに応じて実際に結果が出る。
「空」でありながら実在するかのように働く機能 -
スッタニパータは、原始仏教経典であるパーリ語経典の小部の経典。ブッダのことばとして日本語訳されている。
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断食、呼吸制御、そして肉体的苦痛を受ける苦行に答えはない。
それらには「何かしらの幸福の条件として苦行が設定されている」という構造が潜んでいるからである。