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生老病死は、生まれること、老いること、病むこと、死ぬことの四つの苦。必ず起こる「生老病死」という四つの「苦」に向き合う。PR
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基本はヴィパッサナーである。
だがヴィパッサナーは瞑想ではない。 -
仏教の「空」と空の状態の機能。空とは仏教が説いたものではあるが、哲学的には当然となる理である。我体・本体・実体なきというところのみならず一切が空である。
本来は「有るような無いようなもの」である「空」。しかし、空であろうとも有であるかのように働く機能があり、それが実際に何かしらの結果をもたらすことがある。前提となる仮定対象を「ある」と仮定すれば何かしらの機能が生まれ、働きに応じて実際に結果が出る。
「空」でありながら実在するかのように働く機能 -
スッタニパータは、原始仏教経典であるパーリ語経典の小部の経典。ブッダのことばとして日本語訳されている。
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断食、呼吸制御、そして肉体的苦痛を受ける苦行に答えはない。
それらには「何かしらの幸福の条件として苦行が設定されている」という構造が潜んでいるからである。 -
禅定の限界、最高の精神集中でも仏教においてはそれがゴールというわけではない。
集中を解いた瞬間に苦しみが戻るからであり、根本解決にはならないからである。 -
怨憎会苦(おんぞうえく)とは、五感や意識の五蘊により、嫌なものと会う時に起こる苦しみ、嫌なものと会うということを想像する苦しみ、そして嫌なものを思い出す時に起こる苦しみ。
嫌な対象に会い、触れる苦しみである怨憎会苦である。
執著から起こる精神的な苦しみである怨憎会苦
怨憎会苦は精神的な苦しみであり、接触と接触の記憶から生ずる何かしらの執著が軸となって起こる苦しみである。五感も意識も基本的には常に働いているため、望まなくとも何かしらを感じてしまうという構造から起こる苦しみであり、記憶による執著が原因となり起こる苦しみである。
「怨憎会苦」嫌いなものと会わねばならぬ苦しみ -
ありのままの現象の観察を行うヴィパッサナーが最も安全であり、最も本質的な仏教修行である。本来、有身見を見破るために行う。こうした観察は、自分で自分を観察するというものではあるが、偏見、偏見による言語的判断等々、自分の自我を通して観るのではなく、現象をそのまま観るというのが基本となる。
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一切行苦は「どう生きるか」に関連するため、理解しやすくわかりやすい側面を持っている。
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生苦とは、生きる苦しみ、生きるためにやらされている事による苦しみのことを意味する。「生存本能にただやらされているだけ」という生存本能としての苦しみが「生苦」・「生きる苦しみ」。
生苦の苦
生きるために常に何かを求められ、やらされているという構造は、常に同時に満足のすぐ後に不満足の状態になるという構造を持っている。この生苦の苦は、不完全、不満足、思い通りにならないという意味のドゥッカである。
「生苦」生きる苦しみ