-
諸法無我(sabbe dhammā anattā)は、「諸法非我」とも呼ばれることがある。
これは「我ならざるもの」というニュアンスをより一層的確に表現している。
諸法無我の「諸」は「一切の」とか「あらゆる全ての」であり、「法」は、「理」、「法則」、「揺らぐことのない真理」。無我は「我」というのは「固定的な実体」としての自分、自我を否定することを意味する。我を我だと思うこと、我を固定的な存在だとすることを否定している。これにはアートマンの否定の要素が強く反映されている。
諸法無我
あらゆる因縁によって起こっており、その中で固定的な「我」は無い
諸法無我は、「あらゆる因縁によって起こっており、その中で固定的な我は無い」というような意味を持つが、我がないのであれば自我の認識自体が起こりえない。
よって我がないのではなく、我は我ならず、一切は因縁により生起された我ならざるものということが諸法無我である。PR -
スッタニパータは、原始仏教経典であるパーリ語経典の小部の経典。ブッダのことばとして日本語訳されている。
-
断食、呼吸制御、そして肉体的苦痛を受ける苦行に答えはない。
それらには「何かしらの幸福の条件として苦行が設定されている」という構造が潜んでいるからである。 -
禅定の限界、最高の精神集中でも仏教においてはそれがゴールというわけではない。
集中を解いた瞬間に苦しみが戻るからであり、根本解決にはならないからである。 -
怨憎会苦(おんぞうえく)とは、五感や意識の五蘊により、嫌なものと会う時に起こる苦しみ、嫌なものと会うということを想像する苦しみ、そして嫌なものを思い出す時に起こる苦しみ。
嫌な対象に会い、触れる苦しみである怨憎会苦である。
執著から起こる精神的な苦しみである怨憎会苦
怨憎会苦は精神的な苦しみであり、接触と接触の記憶から生ずる何かしらの執著が軸となって起こる苦しみである。五感も意識も基本的には常に働いているため、望まなくとも何かしらを感じてしまうという構造から起こる苦しみであり、記憶による執著が原因となり起こる苦しみである。
「怨憎会苦」嫌いなものと会わねばならぬ苦しみ -
ありのままの現象の観察を行うヴィパッサナーが最も安全であり、最も本質的な仏教修行である。本来、有身見を見破るために行う。こうした観察は、自分で自分を観察するというものではあるが、偏見、偏見による言語的判断等々、自分の自我を通して観るのではなく、現象をそのまま観るというのが基本となる。
-
一切行苦は「どう生きるか」に関連するため、理解しやすくわかりやすい側面を持っている。
-
生苦とは、生きる苦しみ、生きるためにやらされている事による苦しみのことを意味する。「生存本能にただやらされているだけ」という生存本能としての苦しみが「生苦」・「生きる苦しみ」。
生苦の苦
生きるために常に何かを求められ、やらされているという構造は、常に同時に満足のすぐ後に不満足の状態になるという構造を持っている。この生苦の苦は、不完全、不満足、思い通りにならないという意味のドゥッカである。
「生苦」生きる苦しみ -
預流向・預流果・一来向・一来果・不還向・不還果・阿羅漢向・阿羅漢果。
-
諸行無常と関連した諸法無我も哲学的概念である。諸法無我は諸行無常と同様に、自分の主義によって変更することのできない理。諸法無我は「諸法非我(しょほうひが)」と呼ばれることがある。アートマンの否定要素もありながら、あらゆるものは因縁による状態にしか過ぎないというのが諸法無我である。その理解には哲学的感覚が必要となる。